やっぱり井上さん、今日じゃなからにゃいけじゃったんですよ。これが二時間前です、来とるとが。だからこの事、これをあなた方に信心を、これは素晴らしい信心の、まあ、雛形です。あの、いうなら、万事にですね、御取次を頂いて、どげな心配な事があったっちゃその都度都度に安心のおかげを頂きながら、確信を積んでいこうという信心にならなきゃいけないです。

昭和50年1月19日  井上(綾乃?)五十日祭における親先生の御挨拶


 おかげを頂きまして有難うございました。
 今日あの、おばあちゃまの御霊様が、御霊様の、いうならば正式にお仲間入りができられたという、私は今日驚いてしまったんですけれども、今日あなた方みんなこの洋服でみえとられますがね、御霊様はねそういう、あの、黒い洋服で、真珠のネックレス、この胸の辺りまでこう二重に巻いたやつをね、こう下げて、しかもかかとのこんなに高い、けれども安定感のあるこの大きなかかとのがあるでしょ、あの靴を履いて、何かもう見事なあの、何ですかね、ソックスっていうんですか、こう履かれて、もう実に印象的な、こう進まれてね、立派な椅子にこうつかれてるもん。それから何て言うでしょうか、もう何も言う事はないというような表情です。本当にあのもう、有難いなと思いました。
 ★あの、神様の前で神様からいろいろ、もう本当にいろいろお知らせを頂きましたが、初めに私が頂いたのは、昔はこの障子なんかを貼る時に、糊を(つくる箱?)がありますよ。それでここで溶きながらはけでする、(はこ?)がわざわざどこの家でもありましたよね、私共の家にもあった。それで溶いてこうする、あの、糊の箱を頂くんですよ。どういう事かと思わせて頂いたらね、結局糊は(のり?)に通ずる。いわゆる徳に通ずる。あの、おかげで、いうならば徳の箱の中に納まっておられるという感じです。それからね、いろいろ御理解を頂いたんですけれども、おばあちゃんの例えば生前の御性格というのはね、人の足の裏までも分かるような性格だった、神様から頂いたのはね。人の足の裏まで分かる。だからもう、足の裏なんか汚れた人がありますよね、たいがい汚れてますよ。その、そういうところがね、気の付く人だったという、だんだん信心を頂かれてですね、こういう事に精進されたんです。どういう事かというとね、広ければ広く、狭ければ狭く、水の流れるに不足はあらじという事に焦点を置いて一生懸命稽古をされたんだけれども、実際はできなかったという事、生前は。広ければ広く、狭ければ狭く、水の流れるに不足はあらじ、今朝から頂きます、自我を滅却するという事に焦点を置かれたんです。こげなことに自分は気をもんじゃいかんという事は分かっておる、親先生から頂いておるけんよう分かっとるばってん、それが、性格がね、人の足の裏までも見える性格、という事は細かいところまでも気が付かれる方だったという事なんです。そういう例えば肉体を持っておられる時に信心によって、いわゆる間違いのないところに焦点を置いて信心の稽古をなさったけれどもできなかったけれど、御霊ながらにもやはりそれを焦点にして、もう本当に子供達孫達の信心のおかげでね、いうならばこういう有難いおかげを頂いておるという事を、これはあの、神様からのお知らせでした。
 私はそれから思わせて頂くんですけれども、本当にこれからおばあちゃんのお働きの中にね、例えて言うならば障子どんが破れておるならばすぐ張替えなさるような働きができるだろうと思うです。笑い話にございますね、向かいの嫁さんの、あんまりろくそうなかつを、はあもう障子なんてんこう破れてから、もうちょいと本当向かいの嫁御さんのそうにゃろくそうなかっち言うてから、言いござったです。なん、自分方の障子の破れからこうやって眺めござったというわけです。だから、人の足の裏までも見えるような例えば性格の人は非常に苦労します。ですけれども、それは自分の心の破れから覗いておるんだと悟れた時にです、はあ人だんじゃなか、自分のこと、今日の私御霊様の、特に靴の安定感のあるね、しかも足取りももう実に堅実な歩き方でね、少しばかりのところこう歩いて椅子につかれた、その顔の表情というのが、まあ今申しますようにね、もう言う事は無いという顔でしたよ。本当にあの、有難い、本当に例えば、人の非が見える時には自分の心の障子の破れから見えておるんだという事が分からせてもろうてです、そういう場合に、なら井上家の方達がいったいそういう感じがしますよ、やっぱり。ですから、もうそういうところを自分の、いうなら自我を滅却していく事の焦点を置いてね、御取次を頂いてはあほんにそうじゃったという時にはもうすでに自分を滅却した時ですから、その事が楽なんです。いやその事に御礼が言えれるような心の状態が開けてくるです。信心はね、そういう心の状態を開かせていただく事に焦点を置いて信心の稽古させて頂いて、本気でできればできます。例えば自我を滅却するなんていう事、例えば仏教の言葉に、心頭滅却すれば火の中もまた涼しいなんて、私だんもう大変な、こりゃもうできない事だと思ってた。ところがなるほど、火の中に座るなんてちゅう事はできんかもしれませんけれどもね、私共のいうならば日常生活の中に火があり、また氷がありね、風があり雨があるです。そういう中にあっても、降っておる雨の中にお知らせ、有難いというね。
 今日ちょうどお祭の準備を、皆さんが(段取りが?)終わってから、もう三時からというのに二時半です、選挙にいかなければならん、車の用意ができておるからち言うから、もうお祭りが済んでからと思うておったけれども、ならちょっと連れて行ってもらおうかねと言うて、立とうとしよるところにへけたたましゅう電話がかかってきました。(近見市長? )さんからでした。先生、いつもそりゃあもう本当に、日頃の信心、どんなに偉い人でもです、どんなにあれでもね、こういう時に本当に、いうなら自我を滅却しておきますとね、もう皆さんガタガタしよってもね、おかげになりますがと、おかげになりますよと言えれるような心の状態を開いておかなければいけない。先生今現在、27パーセントしかないち言う。その選挙にみえる人のあれが。どんな事があっても60パーセント、65パーセントはでてもらわなければね、私が分が悪いって。あちらはもう日教組の方達が、ああもうこりゃ絶対、車を出していくという事になっておるそうです。だから私には一番分の悪いところにありますから、と言うて、電話でね、もうそれこそ、悲壮な様子で、けれども今から私が、選挙に今から行きよるとですから、もうその(間に合う?)タイミングが素晴らしかった。★その事をまたお願いさせてもらいよりましたらね、寒牡丹を頂きましたよ。わらでこう(?)でね、してあって少しこう開けてあるところから中に寒牡丹がこう覗いておるところ。もう本当に、私達がね、どんな場合であっても慌てんですむだけの信心を頂かにゃいけません。どんな場合であってもその問題の裏が分かる信心にならなきゃいけません。いわゆる肉眼をおいて心眼を開かせてもらう、いうなら自我を滅却するという事、それは大変難しい事のようですけれども、金光様の信心をさせて頂いて、日々御取次を頂いていくところに、もう御取次を頂いたその時点で自分というものを無くしていく事できなんとです。それが有難いです。だからそれを十回、二十回、一年二年と続けていく内にです、こういう時にバタバタしては、それこそ広ければ広く、狭ければ狭くという心が生まれてくるんです。それこそ水の流れるに不足もあらず、広ければ広う流れたら良いのである。狭ければ狭く流れたら良いのである。そういう心の状態におかげが頂かれるんです、金光様の御信心は。
 私は今日は、私自身もそのおばあちゃんの、こうして五十日祭を奉仕させて頂いて、私自身もおかげを頂いた感じ、神様の前でもう本当にこまごまと御理解、今私が申しましたような事をもっともっとね、噛み砕いて、ような感じで頂きました。
 これから御霊様の働き、自分が生前に成し得ていなかった事が、皆さんの信心、また自分の持っていかれた信心、焦点だけはやはりそこに置いてあったというのですから、みんなのおかげで、いうならば糊の箱の中に納まる事ができた。徳の、みんなですね、実を言うたら徳の箱の中にあるんです。御神徳の中にあるのです、この世でも。それを、自我を滅却してみて初めて御神徳の中にあるんだという事がわかるのです。だからあるんだけれども気が付かないだけの事です。肉体を無くされて魂の世界、心の世界だけで覗かれよる時に、はあここも神様の懐であったと気付かれたわけです。そしてこれからはゆとりができて、もしあなた達の上にね、そういうの言われとるとこどんがあると神様が、神様がすぐその、いわば障子の張替えにでん来て下さるような働きのできれる御霊様だという風に、今日私は感じましたですね。
 まあ本当に、もうこれはですね、もう私は御霊様のいろいろお祭をさせて頂くたんびに思うんですけれども、もう本当に私共がいよいよこの世で魂を清めておかなければいけないなっていう事です。同時に、あの御霊様のこうして、遺族の者の、親身の者の真心いっぱいの事がどのくらいあちらに響いていくか、その喜びがです、今日おばあちゃんのその、もう言う事はないといったような顔でね、椅子にかけられた様子を拝ましてもろうて、本当に信心ちゃあ有難いなとあらためて思わせて頂いた。今日はそんなに有難いお祭でした。